真田幸村
戦国 ラスト・ヒーロー
真田幸村(信繁) 1567(永禄10)〜1615(慶長20)
幼名 弁丸(9歳まで武藤姓)
仮名 源次郎
諱 信繁
官途名 左衛門佐
真田幸村といえば、戦国武将の中でも1、2を争う人気がある。 しかし、もし大坂の陣がなければ、幸村の名を知るものは少なかったであろう。 「真田昌幸の息子にそのような名前の者がいたような?」そんな感じであったろう。 (ちなみに、幸村の名は、同時代の資料や手紙にその名はなく、信繁というのが正しいのだが、ここでは幸村の名を使う。)
真田幸村が、大坂の陣までに戦場に立ったのは、わかっている限り2度だけだ。 1590年(天正18)24歳の時、豊臣秀吉が北条氏を打つために関東に出陣した。 この戦に父・昌幸、兄・信幸と共に加わり、碓氷峠を越えて関東に出陣した。 これが、幸村の初陣とされている。
2度目の戦いは、10年後の1600年(慶長5)34歳の時、関ヶ原の前哨戦、信州の上田城で徳川秀忠の軍勢を、父・昌幸と共に迎え撃った第2次上田合戦だ。 この戦でみごとに秀忠軍を退けたが、肝心の関ヶ原で西軍が敗れたため、この後、昌幸・幸村は長い蟄居生活を送ることとなる。
真田幸村は19歳から34歳までの15年間、上杉・豊臣の人質としての生活を送り、上田合戦をはさんで、34才から48才までの14年間は、九度山での蟄居生活だった。 幸村とは意外なほど戦場とは縁のない男であった。
(豊臣時代は、大谷吉継の娘を娶ったり、官位を賜るなど人質というより近習として仕えていたのだろう)
確かに、戦国最後の世代の真田幸村は、人生の大半を戦場往来で過ごしてきた世代ではない。 しかし、同じ年に生まれた伊達政宗は、15歳で初陣を飾り、秀吉に屈服するまでの9年間奥羽の地を席巻し、その後、文禄の役では海を渡り、関ヶ原の時は奥羽の地で上杉と戦った。 もう1人同じ年生まれの立花宗茂も、15歳で初陣を飾り、その後6年間九州の地で秋月、島津と戦い、小田原の陣を経て、文禄・慶長の役では、「日本軍第一の勇将」と武名を轟かせた。 それらに比べれば、幸村の武名などなきに等しかった。
しかし、最後の最後で天は真田幸村に大きな舞台を用意した。 大坂の陣、この一戦において幸村は「日本一の兵」の称号と数百年に及ぶ名声を手に入れた。 冬の陣では、真田丸における鮮やかな戦ぶり、夏の陣では、徳川家康本陣に突撃をくりかえし、家康が討ち取られたとの伝説まで生み出した。 戦術だけではない、軍勢の具足・旗印を赤備えにし、「関東勢百万も候え、武士は一人もなく候」と、大見得を切る。 この大舞台の主役は、間違いなく幸村であった。
戦後、島津家は国許に「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と書き送り、細川忠興は、「古今これなき大手柄」と賞賛した。
※ 立花宗茂の生年には、1569年説もある。
(文/葛城 涼介)
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